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ルーツにまつわる極私的覚書
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阿部正令神道が天保年間に記した歴史地理的叙述。別名『大分川の流』。「瓜生島」の項を中心に瓜生島の考証を試みている。
引用文献は『立花家家譜』、『木付氏家譜』、『豊臣鎮西御軍記』、『本朝故事因縁集』(仁王の面が赤くなると島が滅ぶという説を引用)、『豊筑乱記』などで、自説をまじえつつ当時としては科学的な考察を行っている。
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瓜生島のほかに全国各地に伝えられる珍島物語は以下の通り。

【長崎】天草・牛深市の早崎の岬には海底に金の鳥居が見える。これは愛宕社のご神体とされ、付近を通る船は礼笛を鳴らす。(浜名志松編『天草の民話』)
【瀬戸内海】小松島港外のお亀磯には狛犬の目が赤くなると島が沈むという言い伝えがあり、ある悪戯者がためしに赤色を塗ったところ一夜にして島が沈んだという話が残っている。
【島根】益田市沖の鴨島は万寿三年、一夜にして沈没したと言われる。
【豊前】英彦山中腹・たかす原の『わくど石』が少しずつ動いて山に登り、登り詰めたときには英彦山が海になると言われている。
【別府】一遍上人の作ったと言われる石像の鼻が赤くなると災難があると言われていた。
【大分】滝尾・碇山の中腹の石が落ちると村は海になると言われた。
【北海部】丹生(にぶ)村の女夫石(めおといし)が動いてくっつくと海になるという伝承がある。

いずれも物語の構成は同一だが、瓜生島伝説と比較して地震・津波の光景描写その他において格段に民話的であり、現実の生々しさは希薄だ。かような伝説のパターンが各地にあり、それに瓜生島海没の史実が素材として結びつけられて瓜生島伝説が構成されたと考えられる。

ほかに高知県高岡郡窪川町興津の黒田郷海没に絡む悲恋伝説、京都市奥丹後半島伊根町新井崎(にいざき)沖の冠(かんむり)島・沓(くつ)島の海没伝説などもある。
府内西郊沖ノ浜に住んでいた。元禄12(1699)年、古記録や古老の話をもとに『豊府聞書』を著す。

経歴はよく分かっていないようだが豊府聞書の奥書(巻末)に「于時元禄十一戊寅祀八月十八冥(めい、夜)。豊府沖濱之住、戸倉貞則謹門書」とあるので沖ノ浜に住んでいたと思われる。また、聞書序文の末尾に「…商賈デアッタガ、閑暇ヲ得レバ、即チ往時ヲ記録シテ、以テ将来ニ傳フ」とあることから、聞書の「御倉所跡」の項に出てくる沖ノ浜戸長「戸倉助右衛門」の子孫で、何か商売をしており、俳諧師などを宿泊させるだけの家、屋敷があったと思われる。ただ、奥書に貞則という名を記しているのが気にかかる。元禄年間、(特に商人の場合)名のみを単独で使用することはあまりなく、通称のみかもしくは名の前に通称をつけて、○○衛門貞則というように用いるのが一般的であった。また聞書跋文(現在でいうあとがきか)は岡藩の儒医関載甫が豊府聞書の完成した元禄11(1698)年から16年後の正徳4(1714)年に記した。このことから、著者戸倉貞則は生没年不詳であるが、少なくとも正徳4年までは生存していたと思われる。

府内藩から俸禄、扶持を受けている人間ではないようなので、「府内藩の戸倉貞則」という表現は間違いで、府内藩領の沖ノ浜に住んでいただけの話である。また豊府聞書の記録は、府内城主日根野吉明の治世までで、大給松平氏の時代については言及がない。大友氏の行く末を最後に〆ていることから、戸倉貞則は大友家と所縁のあった人物であろうか。
正式な地名は大分市勢家。明治の頃までは「沖の浜町」と呼ばれていた。
地震の翌日(閏7月13日)早朝、助かった島民たちを保護した勢家村の名主が府内城へ報告。城主・早川主馬首長敏は被災者に衣服や食料を与えて勢家に仮の家を建て住まわせて、沖の浜の旧名をとって「沖の浜町」とした(『雉城雑誌』・『豊府聞書』より)。
瓜生島の西北にあった島。家数500軒。瓜生島沈没の翌年沈んだと伝えられる。現在の別府市海門寺があったと言われる。
1699年に戸倉貞則が著した書物。瓜生島に関して最初に記述されたとされるが現存せず、その写本もしくは異本とされている『豊府紀聞』(全7巻)が日本最古の現存する「瓜生島」の沈没に関する文献となっている。これ以前の古文書には「瓜生島」という記述は見られず、瓜生島の条件に該当する地は全て「沖の浜」と書かれていることから、「瓜生島」という名称を用いたのはこの書が最古ということになる。以後『豊府聞書』と『豊府紀聞』などをもとに「瓜生島」の沈島伝説が語られることとなった。

府内万寿寺の僧揚宗(注)が書いた巻頭の序文は次のようである。
(注)「禅餘集」を著した乾叟の引退後、延宝2(1674)年万寿寺の法灯を継ぐ。宝永元(1704)年没。


「…茲ニ豊府城ノ西郊ニ、戸倉氏、貞則トイフ者アリ。夫レ能ク古キヲ好ム。ソノ人ト爲リヤ、幼年ヨリ父ノ傍ラニ在リ、而シテ客アリテ父ト対談スルヲ聴クヤ、即チ筆シテ以テ之ヲ記ス。壮歳ニ及ンデ自ラ謂フ。此コ府中ニ居ストイへドモ、府城権輿ノ事、或ハ城主逓代ノ事蹟ヲ知ラズ。是ニオヒテ、古老ノ口実ヲ聞キ、或ハ古記文章ヲ見、而シテ其ノ証スベキ者ヲ拾ヒ、之ヲ記ス。…而シテ、明暦年中ニ至ル五百年間ノ神社仏閣之興廃、祭祀之興亡、市場之開闢(かいびゃく)、民居之移換ナドヲ記載シテ、後人ノ明鑑ト謂フベキナリ。編集シテ七帙ト為ス。自ラ題シテ豊府聞書ト云フ。或ル時、書ヲ懐キ来テ、弊室ヲ扣ク。予(揚宗)ガ之ヲ訂シ又序ヲ為スヲ請フ。書ヲ開キ之ヲ閲シ謂ッテ曰ク、吾緘否(堪否 堪能な事と堪能でない事)ニシテ文法ヲ識ラズ。商賈デアッタガ、閑暇ヲ得レバ即チ往時ヲ記録シテ、以テ将来ニ伝フ。…予、非才ヲ以テ固辞スル。シカシ請ヒマタ止マズ。因テ其ノ朽才ヲ忘レ、厥ノ大概ヲ述ベテ以テ序ト為ス。
時ニ元禄十一歳次戊寅暮秋(陰暦九月の異称)日。住蒋山野釈揚宗教。書干龍眠室」

最後の記述は明暦3年のもので、次のようにある。

「明暦三丁酉年(1657年 他資料によれば9月16日)、大友豊後守源義統二男松野右京亮正照之(三男)大友内蔵助源義孝、厳有院殿(徳川家綱)ニ初拝謁。コノ時厳有院殿、大友内蔵助義孝ニ資給ヲ賜フ。(1657年12月27日、蔵米五百表を賜る)」

また、西応寺の項には次のように書かれている。
「…明暦二、冬十一月。広度山西応寺第八世中興開山蓮社念誉専哲和尚ト称ス。監検使ノ命ヲ受、鳥羽院ノ仏工雲慶…」

ここでいう監検使(目付)とは、日根野氏断絶(明暦2年5月)のため幕府から派遣された城受取りの使者である。監検使及び代官による旧領の統治は、萬治元(1658)年4月、大友忠昭が高松(大分市)から府内に入城するまで約2年間行われた。そうして、豊府聞書は安定した時代となった元禄年間、大友氏2代近陣(ちかのぶ 1676〜1705)の治世の頃に書かれたのである。

さらに、豊府聞書は神社、仏閣などの由来について詳しく述べているが、大友宗麟の時代に行われた南蛮貿易や府内におけるキリシタン関係の事には一切触れていない。著者が意図的に割愛したのであろうか。また、沖ノ浜の住人であった貞則が、当地に鎮座する「恵比寿神社」について一言も言及してないことも気になる。
昭和5〜7年に刊行された、大分を中心とした諸古蹟の研究論文・報告集。「瓜生島研究」の特集を執筆したのは、市場直次郎・波多野宗喜・蜷木公一・十時英司らの郷土史研究グループ。史料は『豊府聞書』以降に限られているが、戦災で焼失した『幸松家文書』が取り上げられている。
地震が起きた当時の瓜生島の島長。息子の信重とふたり小舟で避難するが海に投げ出され、天の声に従って差し出された竹に掴まり加似倉山の麓に打ち上げられる。信仰深い人であったと言われる。
瓜生島の島主とも庄屋とも言われる。『雉城(ちじょう)雑誌』によると祖先は埴多賀宿弥(はにたがしゅくや)。府内の素封家で藩政時代から藩の保護下に酢の製造を行っており、屋号は「酢屋」と言った。

廃藩置県で明治5年1月23日に大分県庁が開庁したとき、堀川の酢屋幸松雄三郎邸を仮庁舎にして2ヶ月ほどそこで政治を執った。また邸宅の一部は初代権令(現在の知事)森下景端の大分在任中の舎宅として提供された。
豊後崩れ、万治露見などともいう。

1659(万治2)5月、大分郡熊本藩領高田手永(てなが)の村々にはじまり、臼杵、岡、府内の各藩領や幕府領にひろがって、以後1683(天和3)までの24年間にわたって続けられた隠れキリシタンの大量捕縛。

隠れキリシタンの疑いをうけた者が捕縛され、キリスト教信仰を捨てないと死刑または投獄された。捕縛されたのちキリスト教信仰を捨てた「転びキリシタン」と、教徒でないのに疑いをうけた人々だけが帰村を許された。この間に豊後の幕府領(大分郡15か村、玖珠郡2か村)だけでも220人が捕縛され、うち57名が死罪、1686(貞享3)時点での牢死が59、江戸・長崎・日田の在牢が39、放免が65となっている。臼杵藩領での捕縛者は578名、処刑および牢死が57名となっている(マリオ・マレガ『豊後切支丹史料』『続豊後切支丹史料』による)。熊本藩の豊後領で処刑を免れ転びキリシタンとして登録されたのは393名(『大分市史』中巻)、豊後全体で隠れキリシタンとして捕縛された人々は裕に1,000名を超えたと推察される。
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プロフィール
緋夏
大分県大分市在住、♀、AB型
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