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ルーツにまつわる極私的覚書
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豊後崩れ、万治露見などともいう。

1659(万治2)5月、大分郡熊本藩領高田手永(てなが)の村々にはじまり、臼杵、岡、府内の各藩領や幕府領にひろがって、以後1683(天和3)までの24年間にわたって続けられた隠れキリシタンの大量捕縛。

隠れキリシタンの疑いをうけた者が捕縛され、キリスト教信仰を捨てないと死刑または投獄された。捕縛されたのちキリスト教信仰を捨てた「転びキリシタン」と、教徒でないのに疑いをうけた人々だけが帰村を許された。この間に豊後の幕府領(大分郡15か村、玖珠郡2か村)だけでも220人が捕縛され、うち57名が死罪、1686(貞享3)時点での牢死が59、江戸・長崎・日田の在牢が39、放免が65となっている。臼杵藩領での捕縛者は578名、処刑および牢死が57名となっている(マリオ・マレガ『豊後切支丹史料』『続豊後切支丹史料』による)。熊本藩の豊後領で処刑を免れ転びキリシタンとして登録されたのは393名(『大分市史』中巻)、豊後全体で隠れキリシタンとして捕縛された人々は裕に1,000名を超えたと推察される。
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大分の大友宗麟、島原の有馬晴信、大村の大村純忠のキリシタン大名が宣教師の勧めでローマ法王のもとに送った4人の少年使節。大友の使者が伊東マンショ、有馬の使者が千々岩ミゲル、大村純忠の使者が原マンショと中浦ジュリアン。1582~1590年の8年5か月をかけた命がけの渡航だった。

法王をはじめヨーロッパで大歓迎を受け1年半の滞在ののち8年半ぶりに帰国。しかしすでに秀吉によるキリシタン禁止令が出ており、その後はそれぞれ厳しい道を歩まざるを得なかった。
1657(明暦3)、郡(こおり)村矢次の百姓兵作が長崎で「矢次には天草四郎の生まれ変わりといわれる六兵衛という13歳の子がいる」と洩らしたのがきっかけで行われた大々的なキリシタン摘発。

キリシタンの疑いで捕まった者は郡村を中心に608人。うち斬罪411人、永牢20人、取り調べ中の死者78人、釈放99人。処刑は大村だけではできず、長崎・島原・平戸・佐賀にまで分散して行われた。大村での斬首は131人、放虎原(市立病院下)で行われ、首は原口(首塚)、胴は桜馬場(胴塚)に埋められた。
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緋夏
大分県大分市在住、♀、AB型
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