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瓜生島の本来の村名。実在した地名で多くの書に記述が残っている。
ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスがイエズス会への報告として送った書簡のひとつで『日本において1596年に起こったいくつかの奇跡の概説』としてまとめられた物のうち『豊後の国について』と題されたものの中に、地震の際「オキノファマ」などに約4mの津波が押し寄せ海岸から約2kmに渡って浸水の被害を受けたと書かれている。「オキノファマ」を襲った災害で生き残ったのは唯一人のクリスチャンだけだったとフロイスは続けており、宗教的な誇張があるにせよ、「沖の浜」は地震被害の中心であったと思われる。フロイスによると「オキノファマ」は府内から3哩(3〜5km)離れた大きな村で、多くの船の寄港地であり揚陸地だったようだ。 1555年台風のため豊後に漂着した中国の明の使節・鄭瞬功が3年後帰国して綴った日本での見聞録『日本一鑑桴海図経』にも記述があり、彼が最初に入港したのは「澳浜」で、府内(現大分市)沿岸は遠浅で船が停泊できなかったとされる。 またスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルが大友の館を訪ねる時にも、一旦「沖の浜」に停泊したあと小舟で川をさかのぼり館に入ったと書かれている。 フロイスと同時代頃の『ポルトガル船アジア諸国航海路程記集』の中にも、府内沿岸の海底は白砂であり、「アキナファマ」という錨地に接続していると書かれていたようだ。 伝説中で瓜生島は漁師町だったとされていることが多く、かなり栄えた港だともされているので、やはり「瓜生島」は「沖の浜」と同じ場所を指していると考えるのが妥当だ。 PR |
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