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ルーツにまつわる極私的覚書
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1699年に戸倉貞則が著した書物。瓜生島に関して最初に記述されたとされるが現存せず、その写本もしくは異本とされている『豊府紀聞』(全7巻)が日本最古の現存する「瓜生島」の沈没に関する文献となっている。これ以前の古文書には「瓜生島」という記述は見られず、瓜生島の条件に該当する地は全て「沖の浜」と書かれていることから、「瓜生島」という名称を用いたのはこの書が最古ということになる。以後『豊府聞書』と『豊府紀聞』などをもとに「瓜生島」の沈島伝説が語られることとなった。

府内万寿寺の僧揚宗(注)が書いた巻頭の序文は次のようである。
(注)「禅餘集」を著した乾叟の引退後、延宝2(1674)年万寿寺の法灯を継ぐ。宝永元(1704)年没。


「…茲ニ豊府城ノ西郊ニ、戸倉氏、貞則トイフ者アリ。夫レ能ク古キヲ好ム。ソノ人ト爲リヤ、幼年ヨリ父ノ傍ラニ在リ、而シテ客アリテ父ト対談スルヲ聴クヤ、即チ筆シテ以テ之ヲ記ス。壮歳ニ及ンデ自ラ謂フ。此コ府中ニ居ストイへドモ、府城権輿ノ事、或ハ城主逓代ノ事蹟ヲ知ラズ。是ニオヒテ、古老ノ口実ヲ聞キ、或ハ古記文章ヲ見、而シテ其ノ証スベキ者ヲ拾ヒ、之ヲ記ス。…而シテ、明暦年中ニ至ル五百年間ノ神社仏閣之興廃、祭祀之興亡、市場之開闢(かいびゃく)、民居之移換ナドヲ記載シテ、後人ノ明鑑ト謂フベキナリ。編集シテ七帙ト為ス。自ラ題シテ豊府聞書ト云フ。或ル時、書ヲ懐キ来テ、弊室ヲ扣ク。予(揚宗)ガ之ヲ訂シ又序ヲ為スヲ請フ。書ヲ開キ之ヲ閲シ謂ッテ曰ク、吾緘否(堪否 堪能な事と堪能でない事)ニシテ文法ヲ識ラズ。商賈デアッタガ、閑暇ヲ得レバ即チ往時ヲ記録シテ、以テ将来ニ伝フ。…予、非才ヲ以テ固辞スル。シカシ請ヒマタ止マズ。因テ其ノ朽才ヲ忘レ、厥ノ大概ヲ述ベテ以テ序ト為ス。
時ニ元禄十一歳次戊寅暮秋(陰暦九月の異称)日。住蒋山野釈揚宗教。書干龍眠室」

最後の記述は明暦3年のもので、次のようにある。

「明暦三丁酉年(1657年 他資料によれば9月16日)、大友豊後守源義統二男松野右京亮正照之(三男)大友内蔵助源義孝、厳有院殿(徳川家綱)ニ初拝謁。コノ時厳有院殿、大友内蔵助義孝ニ資給ヲ賜フ。(1657年12月27日、蔵米五百表を賜る)」

また、西応寺の項には次のように書かれている。
「…明暦二、冬十一月。広度山西応寺第八世中興開山蓮社念誉専哲和尚ト称ス。監検使ノ命ヲ受、鳥羽院ノ仏工雲慶…」

ここでいう監検使(目付)とは、日根野氏断絶(明暦2年5月)のため幕府から派遣された城受取りの使者である。監検使及び代官による旧領の統治は、萬治元(1658)年4月、大友忠昭が高松(大分市)から府内に入城するまで約2年間行われた。そうして、豊府聞書は安定した時代となった元禄年間、大友氏2代近陣(ちかのぶ 1676〜1705)の治世の頃に書かれたのである。

さらに、豊府聞書は神社、仏閣などの由来について詳しく述べているが、大友宗麟の時代に行われた南蛮貿易や府内におけるキリシタン関係の事には一切触れていない。著者が意図的に割愛したのであろうか。また、沖ノ浜の住人であった貞則が、当地に鎮座する「恵比寿神社」について一言も言及してないことも気になる。
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緋夏
大分県大分市在住、♀、AB型
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