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ルーツにまつわる極私的覚書
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幕末時代の府内藩の儒官。号は淡斎。天保年間に著した『雉城雑誌』で瓜生島について考察した。
明治維新後も塾を開き300人を超える弟子を教えていたが明治13年に死去。大分市荷揚町の松栄神社境内には明治18年に門人たちが建てたと言われる碑が残っている。
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祖先が瓜生島に一の宮神社を建立したと言われる。もとの姓は「一宮」だったが、明治に入って神社の名前では恐れ多いとして改名した。生石から別府まで他人の土地を踏まずに行けたというほどの豪農であった。本家は現在も金谷橋に住むという。
かつては瓜生島にあった寺。現在は大分市勢家にある。住職の姓は「瓜生」。

地震が発生したのは第六世・周安のとき。本尊の阿弥陀如来像と宝如上人の御文の御写、蓮如上人の六字御名号、顕如上人御請取を流失するが、夢に現れた僧のお告げ通り、流された法物は仏崎の浜で発見された。現在は本尊と汐入りの御文と呼ばれる書きものが保存されている。
別名迹部(あとべ)島・沖の浜島。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)や鵜葺草不合葺尊(うがやふきあえずのみこと)が東上の際に舟出したとも伝えられる。過去、大分県別府湾にあり、江戸時代に一日にして海中に没したと伝えられている伝説の島。室町時代になると豊後一の貿易港として各国からの入船でにぎわった。島の西北に久光島、東に住吉島、松崎島などがあった。

『豊府聞書』や『雉城雑誌』などに書かれた伝説や昔話によると、府内の西北31丁40間(約3.3km)、現在の大分市勢家町の北20余丁(約2.2km)にあり、北の速見郡まで19丁余(約2.1km)あった。東西約36丁(約3.9km)、南北21丁余(約2.3km)、周囲約12km、12ヵ村1000戸、人口5000人ほどの島だったという。島長の館を中心に三条の大通りが東西に走り、南を本町、中央部を東町(裏町)、北を新町と称して、大分から瓜生島・久光島を通って別府へ抜ける交通路がひらけていた。威徳寺・阿含寺・住吉神社・菅神社・蛭子社などの寺社が立ち並び、さらに阿弥陀寺建立のため文禄4年(1595年)、南部の僧都(そうず)行恵が勧進に来た。島津勝久の居館などもあった。

国内資料や国外資料、加えて近年の地質学などの調査研究により、瓜生島が沈んだとされる地震や津波が起こったのは、1596年9月4日(文禄5年(慶長1年)閏7月9日で紛れもない事実だと解っている。震源地は、別府湾南東部でマグニチュード7.0程度の地震が起こったのではないかということだ。潤7月3日〜11日にかけて、微震などは続いたらしい。別府湾の海底には複数の正断層がほぼ東西に走っており、おそらくこの正断層の活動が、直下型の地震を引き起こしたのではないかと考えられている。
地震により起こった津波で別府湾岸には大きな被害があり、各地で崖崩れなどがあったとのことだ。津波の被害を受けた場所の中に、瓜生島だったのではないかといわれる「沖の浜」の地名(村名)が見える。

瓜生島という地名は、1223年初代豊後国司大友能直が編纂したといわれる『うえつふみ』の中に、ウリウハマ、ウルノオハマ、ウリフノトと現れている。それぞれ字を当てると、潤浜、潤のお浜、潤の戸と解釈できる。つまりウリウジマというのは瓜の生える島を表すのではなく、もともと潤島という意味の土地名、ともすれば地形名で、潮が満ちてくれば小さな島となるが、潮が引けば大きな砂浜を広げ砂州で陸地と繋がるような土地だったのではないかとの仮説が立てられる。それならば、沖にある浜を示す「沖の浜」と「瓜生島」のふたつの呼び名は全くの同義となる。東海大学瓜生島調査会はその科学的な調査結果に基づき「大分川河口付近に大部分が砂質土で構成される島が存在し、地震が原因で島のある部分は液状化により全面海域に流失し、他の部分は地滑りなど大規模な陥没を生じ水没した」との仮説を立てている。

【昔話】昔、別府湾に瓜生島という島があった。島には蛭子社で木彫りのエビス様を祀っており、『島民が一人でも仲違いをすれば島中の神仏の怒りに触れ島は海中に沈む。そのあらわれとして蛭子社の神将の顔が真っ赤になる』という言い伝えがあった。だから島の人々は信心深くし、エビス様を丁重に祀って暮らしていた。文禄5年6月下旬、島の南西端の申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が「そんな言い伝えなど気にすることはない。俺が試してやろう」と、蛭子社の十二神将の顔を丹粉で真っ赤に塗ってしまう。島の人々が心配していると果たしてその翌月(慶長元年6月)はじめに、続いて16・17日にも日に数回の地震があった。気の早い島民数十名は荏隈(大分市永興)に逃れはじめる。一月経った閏七月にも4・5日と立て続けに地震があり、さらに11・12日と続いて、12日未刻(午後2時頃)には激しく揺れはじめた。高野山・木棉山(由布岳)・御宝山(霊山)などが一度に火を噴き大きな石が空から降ってきた。府内の町でも水難を恐れた人々が高台になっている勢家町に集まり、法蔵寺という禅寺にも人々が避難してきた。申刻(午後4時頃)に一旦おさまったとき白馬に乗った老人が「島が沈むから避難せよ」とふれまわる。住民は舟に乗ったり泳いだりして府内や日出の町へと逃げだした。一刻ほど後に大地震が起こり高波が島を襲った。島長・勝忠も息子の信重と舟で逃げたが海中に投げ出されてしまう。朦朧として波に揉まれていると空から声がして一本の竹が差し出される。それにしがみついたまま気を失い、気がついたときには親子ともども加似倉山の麓に打ち上げられていた。一夜明けて地震はおさまったが、海上には島影ひとつなくなっていたと言う。
瓜生島にあった神社のひとつ。物語において、島民が仲違いすると奉祀されている神将の顔が赤くなって島が沈むと言い伝えられていた。現在は勢家(浜町)にある。
瓜生島の本来の村名。実在した地名で多くの書に記述が残っている。

ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスがイエズス会への報告として送った書簡のひとつで『日本において1596年に起こったいくつかの奇跡の概説』としてまとめられた物のうち『豊後の国について』と題されたものの中に、地震の際「オキノファマ」などに約4mの津波が押し寄せ海岸から約2kmに渡って浸水の被害を受けたと書かれている。「オキノファマ」を襲った災害で生き残ったのは唯一人のクリスチャンだけだったとフロイスは続けており、宗教的な誇張があるにせよ、「沖の浜」は地震被害の中心であったと思われる。フロイスによると「オキノファマ」は府内から3哩(3〜5km)離れた大きな村で、多くの船の寄港地であり揚陸地だったようだ。

1555年台風のため豊後に漂着した中国の明の使節・鄭瞬功が3年後帰国して綴った日本での見聞録『日本一鑑桴海図経』にも記述があり、彼が最初に入港したのは「澳浜」で、府内(現大分市)沿岸は遠浅で船が停泊できなかったとされる。
またスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルが大友の館を訪ねる時にも、一旦「沖の浜」に停泊したあと小舟で川をさかのぼり館に入ったと書かれている。
フロイスと同時代頃の『ポルトガル船アジア諸国航海路程記集』の中にも、府内沿岸の海底は白砂であり、「アキナファマ」という錨地に接続していると書かれていたようだ。

伝説中で瓜生島は漁師町だったとされていることが多く、かなり栄えた港だともされているので、やはり「瓜生島」は「沖の浜」と同じ場所を指していると考えるのが妥当だ。
瓜生島伝説の登場人物。蛭子社の神将の顔が赤くなって島が沈むという言い伝えを否定し「俺が試してやる」と丹粉で神将の顔を塗りつぶす。
1596年、瓜生島を沈没させた大地震。

「理科年表」(国立天文台編)によると震源地は東経131度36分(又は42分)、北緯33度18分で大きさはマグニチュード7.0(又は6.9)とある(大正12年の関東大震災はM7.9、平成7年の阪神大震災はM7.2)。高崎山頂上の岩石が転げ落ちたという。震源地は日出鵜糞鼻の真南約5.1km、旧電車通り春日浦交差点の真北約6.3km(住吉泊地赤灯台から真北約5.3km)、別府春木川の河口から真東へ約8.8kmの位置(水深約40m)で、ちょうど別府湾の真中(瓜生島があれば島の北側の海)となる。津波をともなった地震は閏7月12日に発生したが、地震の前兆は数日前からあったようだ。「理科年表」では7月3日(閏月ではない)より前震があり閏7月11日から多発したとある。したがって、閏7月9日(瓜生島沈没については、この日をとる場合もある)にも強震程度の揺れがあったことは充分推測できる。しかし、津波をともなった地震が発生したのは閏7月12日のことであろう。また前震はあったが余震については記録がないことから台湾中部地震におけるような大きなものはなかったようだ。

津波の大きさと影響を種々の文献から推測すると、地震の揺れにより「由原神社の社殿が崩壊」、「高崎山頂上の大岩が落下」、「由布院の山崩れ」との記録もあるが、ほとんどが津波による海没・流失の記録で津波による被害が大きかったことが分かる。津波の大きさ、被害の状況は宣教師ルイス・フロイスの「豊後の国について」という報告記録(慶長元年12月28日長崎発信)に次のようにある。

「この地震(慶長)と同時に、豊後において起こった事件は非常に重大かつ恐るべきことで、かの地から来たキリスト教徒の口からその報せを受けなかったら信用出来ないことでしょう。豊後の最も古いキリスト教徒の一人が到着するのを待っていました。その男はビアジオ(ブラス)と呼ばれる立派な男で、神を畏れ、遭遇した大きな危険から逃れてこの地に到着するや否やあの場所で起きたことをわれわれに物語りました。そして現在でも(そのことが起ってから既に二ヶ月にもなるのに)自分を取り戻していないし、故郷の瓦解の驚きを取り除くことが出来ないと言っています。
府内からマイル三哩(約4.8km)離れて、沖ノ浜と呼ばれる大きな村があります。多くの船の寄港地であり揚陸地です。この立派な男はこの地名にちなんで沖ノ浜のビアジオ(ブラス)と呼ばれ豊後では良く知られていますが、それはこの男の家が各地から来る多くの人たちの宿泊所になっているからです。この男が言うには、夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押し寄せて来て、非常に大きな音と大きな力で、その波は町の上に7ブラッチョ(約4m)以上も立ち上ったとのことです。その後、高い古木の頂から見たところによると、気狂いじみた激烈さで海はマイル一哩(約1.6km)も一哩半(約2.4km)以上も陸地を浸食し、波が引いたときには沖ノ浜の町には何も残っていませんでした。…同じ海岸の沖ノ浜の近くの四つの村、即ちハマオクナイ、エクロ、フィンゴ、カフチラナ及びサンガノフチエクイ(岡本良知氏によると浜脇、津留、日出、頭成及び佐賀関に相当するという)の一部は同様に水中に没した言われています。浜脇ではキリスト教徒は一人だけだったので、多くの中でこの人だけが助かりました。
沖ノ浜には非常に多くの船隊が停泊していました。その大部分は太閤のもので、これらの船は王国の徴税のため豊後に来ていました。多くは既に積荷を終って出帆の時を待っていましたし、他の船は積荷を始めていました。ほかにも多くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてビアジオは、確かに聞いたこととして次のように断定しています。即ちこれらの船は一隻さえも助からず、同一場所で砕け、全部が沈んでしまったと。…府内の市は、強情で頑固な人物(早川長敏)の所有でした。司祭や修道士たちがこの市に住み始めてから43年になり…この地震によって五千の家屋があったと言われる町が、二百そこそこになったといわれています。…ファカタ(大分市高田郷)の地においては四千人以上のキリスト教徒がおり、善良な老人イオラン(ジョラン)が殉教したところですが、この地震のとき大河(大野川、乙津川か)を通って海が三里(約4.8kn)も入りこみました。…しばらくすると河はもとの河床に帰りましたが、大きな破壊をもたらしました。即ち多くの家が崩壊し、多くの人が死んだのです。…
国王太閤の徴税役の頭目をしている或る異教徒(前記の早川長敏とは別人物か)は、性質と習慣が邪悪で、府内の市に居住しながら妾とその一人の息子を持っていました。家が倒壊した時この(妾)と息子は押し潰されましたが、彼はもう一人息子をもっていたので、同様な事件で(息子)を失うことを恐れると、高田のキリスト教徒達のもとより安全な避難所はないと考えて、この(地震の)嵐が鎮まるまでキリスト教徒に(息子)を預けました。…
以上のことは、これまでに司祭たちや、自分の眼ですべてを見た人々の、信頼に値する書簡から集めることのできたものです。」

これらの記録から類推すると、12日午後4時地震が発生し、暫くして揺れは収まったが、海が鳴動、井戸の水が枯れた(ただし水枯れは沖ノ浜だけのことか、或は旧府内も含むのかは不明)。夜になって津波(波高約4m)が襲来し、海水が沖ノ浜の陸地に2.4kmも入りこんだというから、入江、大分川沿いにあった旧府内の町(顕徳町を中心)も怒涛に洗われたものと思われる。一面海となった府内の町では同慈寺の薬師堂だけが水面にそびえていた。長浜社、同慈寺仏殿が崩壊・流失したが、海岸に近い浄土寺(生石)、春日神社(勢家)の神殿は流失などの被害を受けた記録がない(もっとも春日神社については、豊府聞書に「・・・・春日大明神寶殿、前年罹大地震洪波。将壊・・・・」とある)。むしろ神社境内に長浜社の祠が流れ着いたという記録があるくらいだ。

旧暦閏7月12日は新暦では9月4日となり、日没は18時20分頃となる。ルイス・フロイスの記録では「夜間海から波が押し寄せてきた」とあるから津波の来襲は少なくとも19時以降であろう。さらに大正4年発行の大分市史には次のようにある。

「我が豊後(別府)湾の海岸地方にても、激震ありて約2時間30分以上を経て、海水一旦遥か沖合いに引き退き、海岸干潟となりしこと数里、かくて約1時間半の後、高さ数丈の大津波来りしことは…」

これが事実とすれば、波間に漂流した人は暗い月明かり(12日だから満月に近い)の中を人家の灯り(火災によるか)を目印に勢家、駄原、津留の浜に流れ着いたことになる。地震、津波の被害の全容が分からぬまま不安な夜を迎えた府内や沖ノ浜の人々の気持ちはどうだったのであろうか。しかし、幸いなことに初秋の頃であり、海水温が25度位のため漂流していても体温が低下せず、助かった人も多いのではないか。
津波による死没者(溺死)は708人(数字はほとんどの瓜生島関係書で同一で、この数字は別府などを含まない瓜生島及び府内周辺のものであろう)とある。死者が少なかったのは「井戸の水枯れ」「海は引き退き干潟露出」などの前兆現象をもって避難する時間があったことによる。しかしそれでも死者は708人にものぼったというから、府内近辺にこれらの溺死者を埋葬した供養塔や慰霊碑があってもよさそうだと思い調査したが見当たらないようだ。ただ別府海門寺では旧暦7月16日に毎年追悼の法要を開催していたり、豊府聞書によると「春日神社境内に漂着した瓜生島天神を、村民毎年6月25日祭る」などとある。

また慶長地震から約50年後に書かれた「豊後國古城蹟並海陸路程」(正保年間1644年頃作、信頼性の高い資料)の筑紫右近佐領分の項に「別府村より未ノ方は、濱脇村之内、鍋山古き要害有。先年の大地震に嶺残分、南北に二十間、東西五間。・・・・」とあるところから、慶長年間に別府湾岸に大きな地震があったのは間違いない。当時(正保年間)はまだ慶長の地震・津波被害を実際に体験している人(60歳以上)が生存しており、地震の恐怖の記憶が残っている時期である。
瓜生島古地図にも出てくる浄土宗の寺。松平一伯公ゆかりの浄土寺の末寺。

境内に幸松家累代の墓がコの字型に並んでおり、碑銘は元禄年間までさかのぼれる(それ以前は風化して読み取れない)。
現在の大分市王子町から勢家にかけてある植木姓を名乗る家々の先祖で、当時から名字を許される格式高い鍛冶屋だった。この一族の祖先が瓜生島に住んでいたと言われる。
瓜生島の古地図によると町並みは一向宗の寺内町の配置になっているが、寺内町では鍛冶職、とくに鉄砲鍛冶の存在が重要であるとされている。
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プロフィール
緋夏
大分県大分市在住、♀、AB型
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