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ルーツにまつわる極私的覚書
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1596年、瓜生島を沈没させた大地震。

「理科年表」(国立天文台編)によると震源地は東経131度36分(又は42分)、北緯33度18分で大きさはマグニチュード7.0(又は6.9)とある(大正12年の関東大震災はM7.9、平成7年の阪神大震災はM7.2)。高崎山頂上の岩石が転げ落ちたという。震源地は日出鵜糞鼻の真南約5.1km、旧電車通り春日浦交差点の真北約6.3km(住吉泊地赤灯台から真北約5.3km)、別府春木川の河口から真東へ約8.8kmの位置(水深約40m)で、ちょうど別府湾の真中(瓜生島があれば島の北側の海)となる。津波をともなった地震は閏7月12日に発生したが、地震の前兆は数日前からあったようだ。「理科年表」では7月3日(閏月ではない)より前震があり閏7月11日から多発したとある。したがって、閏7月9日(瓜生島沈没については、この日をとる場合もある)にも強震程度の揺れがあったことは充分推測できる。しかし、津波をともなった地震が発生したのは閏7月12日のことであろう。また前震はあったが余震については記録がないことから台湾中部地震におけるような大きなものはなかったようだ。

津波の大きさと影響を種々の文献から推測すると、地震の揺れにより「由原神社の社殿が崩壊」、「高崎山頂上の大岩が落下」、「由布院の山崩れ」との記録もあるが、ほとんどが津波による海没・流失の記録で津波による被害が大きかったことが分かる。津波の大きさ、被害の状況は宣教師ルイス・フロイスの「豊後の国について」という報告記録(慶長元年12月28日長崎発信)に次のようにある。

「この地震(慶長)と同時に、豊後において起こった事件は非常に重大かつ恐るべきことで、かの地から来たキリスト教徒の口からその報せを受けなかったら信用出来ないことでしょう。豊後の最も古いキリスト教徒の一人が到着するのを待っていました。その男はビアジオ(ブラス)と呼ばれる立派な男で、神を畏れ、遭遇した大きな危険から逃れてこの地に到着するや否やあの場所で起きたことをわれわれに物語りました。そして現在でも(そのことが起ってから既に二ヶ月にもなるのに)自分を取り戻していないし、故郷の瓦解の驚きを取り除くことが出来ないと言っています。
府内からマイル三哩(約4.8km)離れて、沖ノ浜と呼ばれる大きな村があります。多くの船の寄港地であり揚陸地です。この立派な男はこの地名にちなんで沖ノ浜のビアジオ(ブラス)と呼ばれ豊後では良く知られていますが、それはこの男の家が各地から来る多くの人たちの宿泊所になっているからです。この男が言うには、夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押し寄せて来て、非常に大きな音と大きな力で、その波は町の上に7ブラッチョ(約4m)以上も立ち上ったとのことです。その後、高い古木の頂から見たところによると、気狂いじみた激烈さで海はマイル一哩(約1.6km)も一哩半(約2.4km)以上も陸地を浸食し、波が引いたときには沖ノ浜の町には何も残っていませんでした。…同じ海岸の沖ノ浜の近くの四つの村、即ちハマオクナイ、エクロ、フィンゴ、カフチラナ及びサンガノフチエクイ(岡本良知氏によると浜脇、津留、日出、頭成及び佐賀関に相当するという)の一部は同様に水中に没した言われています。浜脇ではキリスト教徒は一人だけだったので、多くの中でこの人だけが助かりました。
沖ノ浜には非常に多くの船隊が停泊していました。その大部分は太閤のもので、これらの船は王国の徴税のため豊後に来ていました。多くは既に積荷を終って出帆の時を待っていましたし、他の船は積荷を始めていました。ほかにも多くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてビアジオは、確かに聞いたこととして次のように断定しています。即ちこれらの船は一隻さえも助からず、同一場所で砕け、全部が沈んでしまったと。…府内の市は、強情で頑固な人物(早川長敏)の所有でした。司祭や修道士たちがこの市に住み始めてから43年になり…この地震によって五千の家屋があったと言われる町が、二百そこそこになったといわれています。…ファカタ(大分市高田郷)の地においては四千人以上のキリスト教徒がおり、善良な老人イオラン(ジョラン)が殉教したところですが、この地震のとき大河(大野川、乙津川か)を通って海が三里(約4.8kn)も入りこみました。…しばらくすると河はもとの河床に帰りましたが、大きな破壊をもたらしました。即ち多くの家が崩壊し、多くの人が死んだのです。…
国王太閤の徴税役の頭目をしている或る異教徒(前記の早川長敏とは別人物か)は、性質と習慣が邪悪で、府内の市に居住しながら妾とその一人の息子を持っていました。家が倒壊した時この(妾)と息子は押し潰されましたが、彼はもう一人息子をもっていたので、同様な事件で(息子)を失うことを恐れると、高田のキリスト教徒達のもとより安全な避難所はないと考えて、この(地震の)嵐が鎮まるまでキリスト教徒に(息子)を預けました。…
以上のことは、これまでに司祭たちや、自分の眼ですべてを見た人々の、信頼に値する書簡から集めることのできたものです。」

これらの記録から類推すると、12日午後4時地震が発生し、暫くして揺れは収まったが、海が鳴動、井戸の水が枯れた(ただし水枯れは沖ノ浜だけのことか、或は旧府内も含むのかは不明)。夜になって津波(波高約4m)が襲来し、海水が沖ノ浜の陸地に2.4kmも入りこんだというから、入江、大分川沿いにあった旧府内の町(顕徳町を中心)も怒涛に洗われたものと思われる。一面海となった府内の町では同慈寺の薬師堂だけが水面にそびえていた。長浜社、同慈寺仏殿が崩壊・流失したが、海岸に近い浄土寺(生石)、春日神社(勢家)の神殿は流失などの被害を受けた記録がない(もっとも春日神社については、豊府聞書に「・・・・春日大明神寶殿、前年罹大地震洪波。将壊・・・・」とある)。むしろ神社境内に長浜社の祠が流れ着いたという記録があるくらいだ。

旧暦閏7月12日は新暦では9月4日となり、日没は18時20分頃となる。ルイス・フロイスの記録では「夜間海から波が押し寄せてきた」とあるから津波の来襲は少なくとも19時以降であろう。さらに大正4年発行の大分市史には次のようにある。

「我が豊後(別府)湾の海岸地方にても、激震ありて約2時間30分以上を経て、海水一旦遥か沖合いに引き退き、海岸干潟となりしこと数里、かくて約1時間半の後、高さ数丈の大津波来りしことは…」

これが事実とすれば、波間に漂流した人は暗い月明かり(12日だから満月に近い)の中を人家の灯り(火災によるか)を目印に勢家、駄原、津留の浜に流れ着いたことになる。地震、津波の被害の全容が分からぬまま不安な夜を迎えた府内や沖ノ浜の人々の気持ちはどうだったのであろうか。しかし、幸いなことに初秋の頃であり、海水温が25度位のため漂流していても体温が低下せず、助かった人も多いのではないか。
津波による死没者(溺死)は708人(数字はほとんどの瓜生島関係書で同一で、この数字は別府などを含まない瓜生島及び府内周辺のものであろう)とある。死者が少なかったのは「井戸の水枯れ」「海は引き退き干潟露出」などの前兆現象をもって避難する時間があったことによる。しかしそれでも死者は708人にものぼったというから、府内近辺にこれらの溺死者を埋葬した供養塔や慰霊碑があってもよさそうだと思い調査したが見当たらないようだ。ただ別府海門寺では旧暦7月16日に毎年追悼の法要を開催していたり、豊府聞書によると「春日神社境内に漂着した瓜生島天神を、村民毎年6月25日祭る」などとある。

また慶長地震から約50年後に書かれた「豊後國古城蹟並海陸路程」(正保年間1644年頃作、信頼性の高い資料)の筑紫右近佐領分の項に「別府村より未ノ方は、濱脇村之内、鍋山古き要害有。先年の大地震に嶺残分、南北に二十間、東西五間。・・・・」とあるところから、慶長年間に別府湾岸に大きな地震があったのは間違いない。当時(正保年間)はまだ慶長の地震・津波被害を実際に体験している人(60歳以上)が生存しており、地震の恐怖の記憶が残っている時期である。
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プロフィール
緋夏
大分県大分市在住、♀、AB型
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